その二
文:新元良一
「つながりを生むバイリンガル・プログラム」
全日課程幼児部ではじまったバイリンガル・プログラムですが、4月の開講以来、好評をいただいています。
朝の登校時に学校の玄関で迎えるのは、校長のたいせつな仕事。「こうちょうセンセ~」と元気いっぱい手を振って、笑顔とともに歩道の向こうから駆けてくる子どもたちの姿に心弾ませつつ、保護者の方たちとやりとりができるからです。
そんななか、先日あるお父様から、「子どもが家で英語をしゃべるようになりました」と声をかけられたとき、プログラムを考案した人間として感慨深く思ったものです。朝の会話だけでなく、機会を見つけほかのご家族とお話をすると、同様の反応をいただきます。
さて、いざバイリンガル・プログラムを始動してみると、多方面で予想していなかった効果が表れているのに気づきます。本プログラムの大きな特長は、併設するフレンチ・アメリカン・スクールの英語クラスに、日本人学校の児童が参加する点にありますが、これにより、両校の児童たちの間で新しいコミュニケーションが芽生えてきたのです。
英語ネイティブの児童が多いフレンチ・アメリカン・スクールで、週の半分の学校生活を過ごす子どもたちは、まさにスポンジが水を吸い込むように言語を吸収します。先生との会話もそうですが、常時教室で、フレンチ・アメリカン・スクールの新しいお友だちと言葉を交わすことにより、短期間ながら日本人学校の児童に英語が身に備わるのがわかるのです。先のお父さんの“家でしゃべるようになった”のも、こうした普段から外国語に慣れ親しむ経験による成果と考えられるでしょう。
そしてもうひとつの大きな気づきが、職員間のコミュニケーションです。経営母体は共有しつつも、日本人学校とフレンチ・アメリカン・スクールはこれまで、保育や授業で交流し、協力し合う機会は限られていました。しかし今回の共同プログラムにより、情報交換や共通認識を以前にもまして持つようになり、これがプラス効果を生んでいます。
特筆すべき点が、子どもたちへのきめ細やかなケアの継続です。
目の行き届いた指導に努めることで高い評価を得てきた両校ですが、日本人学校、フレンチ・アメリカン・スクールの職員が児童ひとりひとりの特徴を共有し、成長のための考えを出し合う。校長であるわたし自身も、折を見てフレンチ・アメリカン・スクールに足を運び、児童がどのように過ごしているのか自分の目でたしかめ、そこの先生たちと意見交換をし、本校ならではの途切れのないきめ細やかな日英のバイリンガル教育が、成立可能であるのを実感しています。
もちろん、現状のすべてに満足しているわけではありません。本校のバイリンガル教育はスタートして間もないプログラムです。しかし見方を変えると、それは伸びしろが豊富で、まだまだ成長の余地がある証とも言え、さらなる充実を目指すモチベーションをわたしたちに与えてくれます。
そんな思いを抱く日常で、ある日、4歳児の生徒ふたりが校長室の前を通り過ぎようとしたときのことです。彼女たちの屈託のない声が、デスクの向こうにいたわたしのところまで届きました。
「ワタシ、英語がしゃべるようになったんだよ」
「ワタシもだよ」
女子児童の会話に、校長が相好を崩したのは言うまでもありません。 (了)
その一
文: 新元 良一
日本人学校に”現地校”を見つけた!~新バイリンガル・プログラム開講のお知らせ
昨春、校長に着任して以来、全日課程幼児クラスでの英語教育は、わたしが取り組みたかっ
た課題のひとつでした。リセ・ケネディは、われわれ日本人学校とともにフランス人学校が併
設されていますが、このユニークな教育体系を活かして、子どもたちが楽しく、効果的に英語
を学べる環境づくりができないか、と暫く考えてきました。
そしてたどり着いたのが、来る 4 月からスタートするバイリンガル・プログラムです。その
内容をご紹介する前に、校長自身の英語学習談(失敗談?)をお伝えしたいと思います。
中学のころから英語はわたしの得意科目で、そこそこの成績もとっていました。あこがれと
ともに、アメリカへ渡ったのが大学生のとき。おきまりの貧乏ひとり旅で、バスで大陸横断を
しました。
何日も長距離バスに乗っていると、いろいろな人とめぐり合います。そのなかのひとりに、
70 代と思しきご婦人がいました。どんなことかは忘れましたが、こちらが困っていると、見ず
知らずながらその方に助けてもらいました。
本来なら、きちんとお礼を言うべきです。いくら日本から来た青二才でも、それぐらいはわ
かります。ところが、’Thank you’の言葉が出てきません。英語の授業はもとより、普段でも友
人たちとの会話で出るフレーズが、すんなりと声にならないのです。
お礼のチャンスを逃すと、ご婦人は別のバスに乗り換えました。あなたの気持ちはわかって
いますよとささやくような笑顔を、窓越しに彼女が見せてくれたのに、停留所に残ったわたし
は、手を振るのが精いっぱいでした。
あのとき、なぜ’Thank you’と言えなかったのか? 40 年の歳月を隔てたいまでも、悔しさが
残る苦い経験ですが、振り返れば、ひとつの思いにたどり着きます。
いくら学校の教室内で使えても、自分の英語は生身の人間とやりとりするものではなかっ
た。もしかすると、自分の英語ですらなくて、教科書の英語ではなかったか、そんな思いで
す。
ここで言う”教科書”とは、お手本や定型のようなものです。英語のルールにきちんと従わな
ければならない。誤った文法やアクセントだと、話し相手からヘンな目で見られ、場合によっ
て見下されるなどの固定観念が、多少なりとも自分にあった気がします。
この固定観念には、心理的なものも含まれるかもしれません。話す相手は、アメリカ人(あ
るいは英語圏の人)だから、英語という言語を使うことにかけてはエキスパートに違いない。
向こうのレベルに比べると、英語を母国語としない自分はコミュニケーション能力の点で劣っ
ていると、知らず知らずのうちに、この思い込みがわたしの内側で根を生やして、あのと
き、’Thank you’と声を出せなかった、とも考えられます。
もちろん文法やアクセントが、正確であるのに越したことはないでしょう。しかし、日本語
による日常会話で、わたしたちが文法的に正しいか否か意識することはほとんどありません。
自分のなかから自然とわきあがる意思や感情が声や文章となり、相手に伝達される、この手続
きによりコミュニケーションが成立するはずです。
英語を母語とする相手も、我々と同じ人間です。会話のなかで、間違った言葉の使い方もす
るでしょう。だから、文法的に正しくない表現や言葉を、その人たちが使っても何ら不思議で
ない。あれから何十年も経ってそれに気づいたとき、抱いていた固定観念や劣等感が次第に和
らいでいきました。教科書でなく、自分には”自分の英語”があっていい、そんな思いが浮かん
できたのかもしれません。
これからの時代を生きていく、日本語を母語とする子どもたちには、こうした固定観念や劣
等感にとらわれず、のびのびと自分の英語をつかんでほしい、と校長に着任してから思うよう
になったころ、この願いを叶えてくれる場所を見つけました。
それが、本校のフランス人学校(French American School)です。その名の通り、フランス語
によるカリキュラムと並行し、英語だけの保育・授業もこの学校は実施しています。この英語
のカリキュラムのもと、フランス人学校の子どもたちとひとつの教室内で活動し学ぶことは、
つまり、現地校と同じ環境での体験を通じ、自分の英語が習得できることを意味します。
すぐそばに「現地校」をもつ日本人学校。国際学校のなかにふたつの学校を有するリセ・ケ
ネディだからこそ実現できたこのバイリンガル教育は、日本人学校の幼児部において 4 月より
スタートします。多様化が進む時代に、英語を用いてきちんと自分の意思を伝え、相手のこと
も理解する、対等なコミュニケーションがとれる世界市民(Global Citizen)の育成を目指した
プログラムの始動に、いまから心躍らせています。 (了)